
第3章
絵里視点
五年前、大学の新入生歓迎会
爆音の音楽、薄暗い部屋を激しく照らすカラフルなライト。私はソーダのグラスを片手に壁際に立ち、ひどく場違いだと感じていた。真面目な医学部予科の学生である私にとって、こういうパーティーは慣れない世界だった。
「絵里、もっとリラックスしなきゃ!」美咲が私の腕を引っ張った。「一生、図書館に籠ってるつもり?」
「ここは、うるさすぎると思う」私は轟音のような音楽に負けじと叫び返した。
「これが大学生活ってものよ!」美咲は笑いながら体を揺らす。「楽しまなきゃ損だって」
そう言って彼女は人の波に飲まれて、私は隅で一人ぼっちになった。周りの人たちを見回す。みんな馴染んでいて、楽しそうで、私だけが別世界の人間のようだった。
『そろそろ、こっそり抜け出そうかな……』
そう考え始めたちょうどその時、耳元で呂律の回らない声がした。
「ねえ、そこのお嬢さん。一人かい?」
振り返ると、背の高い男がこちらへ向かってくるところだった。目はうつろで、全身からぷんぷんと酒の匂いがする。
「友達を待っているんです」私は少し身をずらしながら、丁寧に答えた。
「そんな冷たいこと言うなよ」男は私の肩に手を置こうと腕を伸ばしてきた。「俺は森本健太、サッカー部のだ。学内じゃ結構有名だから、名前くらい聞いたことあるだろ?」
私はその手をひらりとかわした。「すみません、本当に友達を探さないと」
しかし、男は私の行く手を塞ぎ、さらに距離を詰めてきた。アルコールの匂いに吐き気がし、本気で恐怖を感じ始めた。
「そんなに急ぐことないだろ」声がねっとりとしたものに変わる。「ちょっと話そうぜ、一杯おごるからさ」
「結構です」彼の脇をすり抜けようとしたが、またしても阻まれた。
音楽はあまりにうるさく、大勢の人がいるのに、誰もが自分の世界に夢中だ。隅で何が起きているかなんて、誰も気づいていない。
『最悪……!』
「いいから、一杯だけ」再び伸びてきた彼の手が、今度は私の手首を掴んだ。「絶対気に入るって保証するぜ」
「離してください!」必死でもがいたが、彼の力はあまりに強い。抵抗するうちに腕が壁にぶつかり、鋭い痛みが走った。
「おいおい、そんなにいきり立つなよ……」彼の笑みが下品なものに変わる。
その瞬間、力強い手が男の手首をがっしりと掴んだ。
「彼女が嫌だと言っている」
落ち着いた声がした。見上げると、そこにいたのは藤原和也だった。薄暗い照明の中でも、彼は特別な存在感を放っているように見えた。
「おい、あんたには関係ないだろ……」健太は振りほどこうとしたが、和也の握力は鉄のように固かった。
「今、できた」和也の声がさらに冷たくなった。「彼女を離せ。今すぐだ」
健太は和也の広い肩幅を一瞥すると、賢明にも私の手首を離した。「ちっ、別にたいした女でもねえし」
「失せろ」和也がたった一言そう言うと、男はすぐにふらつきながら人混みの中へ消えていった。
和也は私の方を向き、表情を和らげた。「大丈夫か? 手、貸すよ」
私は頷いたが、足が少し震えていることに気づいた。思った以上に怯えていたようで、急な安心感に涙が出そうになる。
「ありがとうございます」私の声はまだ震えていた。
彼は少し照れたように微笑んだ。「当然のことをしただけだ。腕、見せてみろ」
その時になって初めて、壁にぶつけたところがじくじくと痛み始めているのに気づいた。袖をまくると、腕に擦り傷ができて血が滲んでいた。
「手当てが必要だな」和也は眉をひそめた。「保健センターに連れて行く」
「大丈夫です、こんな小さな傷……」
「傷は消毒しないと感染するかもしれない」彼は譲らなかった。「救急処置の訓練は受けてる。信じてくれ」
私たちは騒がしいパーティーを後にして、静かで新鮮な空気に満ちた夜のキャンパスに出た。和也はしっかりとした自信に満ちた足取りで私の隣を歩き、時折心配そうに私の腕に目をやった。
「名前は?」と彼が訊いた。
「水原絵里、医学部予科です」
「医学部予科?」彼の目に感嘆の色が浮かんだ。「それはすごいな。俺は藤原和也だ」
もちろん、彼のことは知っていた。藤原和也、野球部のスター選手にして、キャンパスの伝説。でも、この瞬間の彼に有名人ぶったところは少しもなく、ただ私の身を案じてくれる優しい人だった。
保健センターにいた当直の看護師は和也に気づくと、すぐに私たちのために治療室を用意してくれた。和也は手際よく医療品を集め、私の傷の処置を始める。
「少ししみるかもしれない」彼はそう優しく言うと、生理食塩水で傷口を洗い流した。
でも、彼の動きがあまりに優しかったので、痛みはほとんど感じなかった。野球ではあれほど力強いはずの手が、今は羽のようにそっと私の肌に触れている。
「とても手際がいいんですね」私は彼の真剣な横顔を見ながら言った。
「軍事訓練でな」彼は説明した。「基本的な医療知識は必須なんだ。兵士はみんな、仲間の手当てができるようにならないといけない」
「軍にいたんですか?」
「一年前に退役して、今は大学にいる」彼は丁寧に傷口へ軟膏を塗りながら言った。「でも、また再入隊するかもしれない」
「どうしてですか?」
彼は一瞬言葉を止め、その目に複雑な何かがよぎった。「この国には、守るべきものがあるからだ」
彼は慣れた手つきで慎重に包帯を巻いてくれた。彼がとても綺麗な緑色の目と、長くて濃いまつ毛をしていること、そして集中するとわずかに眉をひそめることに、私は気づいた。
「これでよし」彼は顔を上げて言った。「濡らさないようにして、毎日包帯を替えるのを忘れるな。もし感染の兆候があったら、すぐに医者に行くんだぞ」
「ありがとうございます」私は立ち上がった。「キャンパスのスターが、こんなに手当てが上手だなんて思いませんでした」
彼は笑った。「スター?」
「野球部の藤原和也。学校中の人があなたのことを知ってますよ」
「でも、俺は君を知らなかった」彼は私の目をまっすぐに見つめた。「それは俺の損だったな」
頬が熱くなるのを感じた。
私たちは診察室を出て、保健センターの駐車場へ歩いた。優しい夜風が花の香りを連れてくる。
「絵里」と、彼が不意に言った。「考えてたんだが……俺たち、また会うべきだと思う」
心臓がどきりと跳ねた。「それって……」
「デートだ」彼ははっきりと言った。「君がよければ。もっと君のことを知りたい」
「はい、ぜひ」言葉が思わず口をついて出た。「すごく、嬉しいです」
彼はスマートフォンを取り出した。「連絡先、教えてもらえるか?」
私たちは連絡先を交換した。まるで夢を見ているみたいだった。
「また連絡する」彼は悪戯っぽくウィンクした。「楽しみにしてて」
「はい……」私ははにかみながら頷いた。
彼は約束を守ってくれた。翌日の午後、週末の野球の試合に誘う彼からのメッセージが届いた。