
第2章
絵里視点
三年前、家のリビング
私はソファに体を丸め、膝に広げた解剖学の教科書を眺めていた。もう二時間も、同じページを見つめたままだった。恋人の和也から連絡が途絶えて、六週間が経っていた。
『六週間』
彼が向こうに行ってから、こんなに音沙汰がないのは初めてだった。いつもなら、『元気だよ』という短いメッセージでも、毎週欠かさず送ってくれるのに。今回は何かが違った。
テーブルに置いた携帯は、見慣れた番号からの着信を待ちわびて、常に画面を灯したまま。メッセージの通知音を聞いた気がして何度もスマホを手に取るけれど、そこには何もない。そんな幻聴まで聞こえ始めていた。
『大丈夫。彼は約束してくれたもの』
けれど心のどこかで、嫌な予感が日に日に大きくなっていた。
ドアのチャイムが鳴った。
心臓が激しく脈打ち、私は飛び起きた。『彼が帰ってきた? サプライズ?』
しかし、ドアを開けると、そこには軍服を着た中年の男性が立っていた。その表情は硬く、帽子を脇に抱え、隣にはもう一人、若い士官が付き添っている。
私の心臓が止まりそうになった。
「水原絵里さん、でいらっしゃいますか?」
「はい」私の声はか細くなった。
「宮崎悠斗と申します。藤原和也の……」
「養父、ですね」私は震え始めた声で、彼の言葉を継いだ。「和也から伺っています」
悠斗は頷き、その目に痛みの色がよぎった。「中へ入ってもよろしいでしょうか。お話ししなければならないことがあります」
突然、足から力が抜けていく。こういう訪問が何を意味するのか、私にはわかっていた。
「嫌です」私は後ずさり、首を振った。「嫌、やめて、お願いだから……」
「水原さん」悠斗が静かに言った。「残念ながら、お伝えしなければなりません……」
「やめて!」私は耳を塞いだ。「言わないで! お願いだから、言わないで!」
しかし、彼の声は私の防御を突き破り、一語一語が弾丸のように心を撃ち抜いた。
「辛いお知らせをしなければなりません、水原さん。和也さんが任務中に...亡くなられました」
世界が、止まった。
頭の中が真っ白になった
肺から空気がすべて吸い出され、どこまでも、どこまでも落ちていくような感覚に襲われた。
「嘘……嘘よ、そんなはずない……」私は床に崩れ落ちた。
悠斗が屈みこみ、私を支えようとしてくれる。「現地での作戦中、爆弾の爆発に巻き込まれて...苦しむことはなかったそうです」
「ありえない」私は狂ったように首を振り、涙を滝のように流した。「彼は帰ってくるって約束した。私と結婚するって。たくさんの計画があったのに……」
「受け入れがたいのはわかる。だが……」
「彼はどこにいるの?」私は悠斗の腕を掴み、爪が制服に食い込むのも構わずに叫んだ。「会いたい。最後にもう一度、彼に会わせて。これが現実じゃないって確かめなきゃ」
悠斗は苦痛に満ちた表情で目を閉じた。
「すまない。遺体は……回収できなかった。爆発が、あまりにひどかった」
その言葉が、最後の希望を完全に打ち砕いた。私は胸が張り裂けるような悲鳴をあげ、完全に崩れ落ちた。
『本当に、いなくなってしまったんだ……』
物音に駆けつけてきた両親は、私の様子と玄関に立つ士官たちの姿を見て、すぐに何が起きたのかを察した。
「絵里、しっかりしなさい……」母が涙声で私の耳元で繰り返したが、もう何も聞こえなかった。
和也が死んだ。私と結婚すると約束してくれた人、永遠に守ると言ってくれた人、初めて愛というものを教えてくれた人が、もう二度と帰ってくることはない。
それからの数ヶ月は、完全な暗闇だった。私は完全に壊れてしまった。授業に出ることも、食事をすることも、ベッドから起き上がることすらできなかった。まるで歩く屍のように、いや、かろうじて生き永らえているだけだった。
医師からは重度のうつ病と診断された。八週間入院し、看護師たちのケアのもと、私はゆっくりと呼吸の仕方、立ち上がり方、そして再び生きるふりをする術を学んでいった。
両親の懇願もあり、私はようやく人生を立て直そうと努力を始めた。けれど、和也が残した空白が埋まることは、決してなかった。
......
ホテルのラウンジ
「絵里?」美咲の声が私を現実に引き戻した。「また、泣いてる」
気づけば私は、両手を濡らすほど涙を流していた。あの痛みを追体験すると、呼吸さえ困難になる。まるで和也の死を、もう一度味わっているかのようだった。
悟は静かに私を見ていたが、やがて深くため息をついた。「彼を見たのが確かなら、証拠を探そう、一緒に.......」
「なんですって?」美咲は驚いて悟を見た。「彼女の妄想を助長するようなこと言わないで! 絵里に必要なのは精神科医であって、これ以上の幻覚じゃないわ!」
「これは幻覚じゃない」悟は立ち上がり、その表情はにわかに真剣なものになった。「俺は海兵隊の退役軍人だ。俺たちには掟がある。仲間は絶対に見捨てない。もし戦友が生きているなら、俺が見つけ出す」
その場の空気が張り詰めた。
美咲は驚いて目を見開いた。「軍にいたなんて、今まで一度も言わなかったじゃない」
「話したくないこともある」悟は私を見つめて言った。「戦争は人を変える。あまりに辛い記憶は、忘れようとする」
私は悟さんを見つめた。胸に希望が芽生えた。
「行くぞ」悟は言った。「ホテルの防犯カメラの映像を確認する」
ホテルのロビーは明るく照らされ、夜のゲストがチェックインを始めていた。悟はフロントデスクに近づき、スタッフに何かを見せた。それが何なのか私には見えなかったが、スタッフは途端に恭しい態度になり、ためらうことなく私たちをバックオフィスの警備室へと案内した。
「ここだ」悟はモニター画面を指さし、キーボード上で素早く指を動かした。「午後五時四十分、教会の方角から来た車両だ」
画面には、あの黄色いタクシーが映っていた。ドアが開き、人影が降りて教会に向かって歩いていく。角度のせいで顔ははっきり見えないけれど、あのシルエットは……
『彼だ』
「彼よ」私は震える声で言った。「和也だわ」
悟がタイムラインを調整すると、男が教会から出てくる場面が映し出された。駐車場で、彼はゆっくりと歩いている。一歩一歩が慎重で、ためらいがちで、何かを確信できずにいるかのようだ。そこへスケートボードに乗った十代の少年が猛スピードで通りかかり、男は明らかに彼を避けようとしたが、その動きはぎこちなかった。
少年は彼にぶつかり、男はバランスを崩して倒れそうになった。カメラ越しに、彼が奇妙な体勢でなんとか立て直すのがはっきりと見えた。まるで右足に何か問題があるかのように。
『和也に何が? 怪我をしているの?』
悟は操作を続け、タクシーのナンバープレートを割り出し、私にはわからない何らかのルートで運転手に連絡を取った。
「もしもし、星野刑事です」悟は落ち着き払って嘘をついた。「本日午後に乗せた乗客について、いくつかお伺いしたいことがあります。保安上の通常の照会です」
「どちらの乗客ですかな?」電話の向こうから聞こえる運転手の声は、緊張しているようだった。
「午後五時四十分頃、聖ヘレナ教会から乗車された男性客です」
「ああ、あの方ですか」運転手の口調が少し和らいだ。「よく覚えていますよ。ひどく弱っている様子で、車に乗り込むときもよろけていましたから。手伝いましょうかと声をかけたほどです。なんというか……まるで病院を退院したばかりのようでした」
私は拳を握りしめた。『患者? 和也は病気なの?』
「彼は何か話しましたか?」悟は続けて尋ねた。
「行き先を尋ねたら、P市、と。声がひどく嗄れていて、長い間話していなかったかのようでした。それから道中は一言も話さず……バックミラーで見たら、ずっと泣いておられましたよ」
P市。私の心臓がずしりと重くなった。あそこには多くの医療施設がある。その中には……。
「退役軍人リハビリセンターが」私は静かに呟いた。
悟は電話を切り、私に向き直った。「今から、君に話しておかなければならないことがある」
彼は私をロビーの静かな一角に連れて行った。美咲もすぐ後ろからついてくる。
「俺は確かに海兵隊の退役軍人だ」悟さんの声は低かった。「二度、派兵された。公式記録には載らないようなことも知っている」
「それって……」
「つまり、軍は時として、特定の理由から兵士がまだ生きていても戦死したと公表することがある、ということだ」
その可能性は、胸を突き刺した。
「和也が、もしかしたら……ってこと?」
「宮崎さんに連絡する必要がある」悟はスマートフォンを取り出した。「真実を知っているとすれば、あの人だけだ。だがその前に、和也についてもっと知りたい。再派遣される前の彼は、どんな人間だったか教えてくれるか?」
私は目を閉じ、記憶をあの甘い時間へと遡らせた。