
第3章
午前十時、大学運動部の建物はまるで霊廟のように静まり返っていた。その静寂を破るように、私は隆のオフィスへと続くドアを、ノックの礼儀さえも捨てて押し開けた。
彼はコンピューターから顔を上げた。コーヒーマグが唇まで運ばれる途中で凍りつく。
「絵里? どうしてここに?」
「話があるの」
私は彼のデスクの向かいにある革張りの椅子にどさりと腰を下ろし、わざと大きな音を立てて松葉杖を床に倒した。最大限の劇的効果を狙って。
「水原スポーツコンプレックスの私の持ち株、T大に売ることにしたから」
ガチャン、と音を立てて隆のコーヒーマグがデスクに叩きつけられた。
「……ふざけるな。今、何て言った?」
「聞こえたでしょ。所有権の四十パーセント、私たちの最大のライバルに渡すの。いい値段がつくはずよ」
「本気で言ってるのか。あの施設は俺たちの家の遺産なんだぞ!」
私は身を乗り出し、目の奥の氷のような冷たさを見せつけた。
「あっちの味方についた時点で、血の繋がりなんて無意味。あなたが築き上げてきたものすべて、私が壊してあげる。よく見てなさい」
彼の顔が真っ青になる。
「狂ってる! こんなのはただのつまらない喧嘩なんかじゃ......」
「つまらない? 実の妹より、私を襲った人間を庇った。それはつまらないことじゃない。裏切りよ」
「沙織はそんなつもりじゃ......」
「その名前を口にするな」
これ以上、彼の言葉を聞きたくなかった。私は背を向けて歩き出した。ここに来たのは報告のためであって、話し合いのためではない。
スターリング、鈴木法律事務所は、A市で最も格式高い高層ビルの最上階三フロアを占めていた。正午、私は弁護士として名高い鈴木美香と向かい合って座っていた。
「投資詐欺はれっきとした犯罪です」
美香は手入れの行き届いた指でテーブルを叩きながら説明した。
「もし司が、事業の見通しについて故意に偽りの説明をしていたと証明できれば……」
「彼はトレーニングへの投資でNFL級のリターンがあると約束して、五万ドルを騙し取った。今じゃ無一文の無職よ」
「完璧ですね。損害額の倍額請求に、懲罰的な慰謝料も上乗せして要求しましょう」
美香の笑みは、まるで獲物を狙う捕食者のようだった。私はその笑みが気に入った。
「あいつにすべてを失わせたいの......前の人生で、あいつが私からすべてを奪ったように」
彼女は片眉を上げたが、その奇妙な言い回しについて問い質すことはなかった。金持ちのクライアントというのは、時々わけのわからないことを口にするものだ。
「お任せください。明日までには、五条さんは破産宣告に直面することになるでしょう」
大学に戻ると、スチューデントセンターは昼食時の雑談で賑わっていたが、司はまるで疫病神かのように隅の席でぽつんと一人で座っていた。
部屋の向こうから、かつて友達が彼に気づかないふりをして通り過ぎていくのを、私は眺めていた。
「金が流れ込まなくなると、面白いぐらいあっさりと人は名前を忘れるものね」
私は独りごちた。
学生会の会長である智也が、私の隣の席に滑り込んできた。
「訴訟の件でみんな持ちきりだよ。キャンパス内じゃ噂はすぐに広まる」
「いいことだわ。もっと速く広まるようにして」
「任せて。今夜までには、今学期のあらゆる社交イベントで、あいつは歓迎されざる客になるだろうさ」
部屋の向こうで司が私に気づいた。彼の顔が、希望とも絶望ともつかない表情で歪む。そして、こちらに向かって歩き始めた。
彼がたどり着く前に、私は立ち上がった。
「こっちに来ようなんて考えないことね、クソ野郎」
午後四時、キャンパスのフィットネスセンターは汗と敗者の夢の匂いが充満していた。ガラスの仕切り越しに、沙織がまるで酔っ払いのようにふらつきながらトレーニングメニューをこなしているのが見えた。
彼女は十五分おきにトイレに駆け込んでいる。
『美香のコネで手配したサプリ会社の人間、仕事が早かったわね』
沙織のコーチがどんどん苛立っていくのを見ながら、私は思った。
「基本的なトレーニングもこなせないで、どうやって大学の代表が務まるんだ!」
沙織がこの一時間で六回目のトイレ休憩から戻ってくると、細木崇之が怒鳴りつけた。
彼女の顔を涙が伝う。
「何が悪いのかわからないんです! 体調はいいはずなのに、でも……」
「でも、じゃない! さっさとしろ! でなければ他のチームを探せ!」
彼女のトレーニング前のドリンクに仕込ませた弱い利尿剤が、完璧に効いていた。危険なものではない。ただ、最も肝心な時に、彼女を無能に見せるには十分だった。
アルファ会館は重低音の音楽と酔った大学生たちの熱気で震えていた。私が少し遅れて午後八時に到着すると、ちょうど司がブラザーフッドのメンバーに必死の弁明をしているところだった。
「なあ、みんな、訴訟なんてでたらめなんだ」
彼はますます敵意を増していく顔ぶれに向かって言った。
「絵里が別れ話で怒ってるだけで......」
「別れ話?」
サークルの会長である藤原和也が一歩前に出た。
「自分の彼女から金を盗んで、おまけに彼女のキャリアを終わらせた女を庇うことを、そう呼ぶのか?」
「そんなんじゃない!」
私はこの一週間、司の社交界における影響力のある人物一人一人を、丹念に訪ねて回っていた。金は物を言う。そして、私には有り余るほどの金があった。
「お前はただの詐欺師だ、司!出て行け。二度と戻ってくるな!」
二人の上級生が司の両腕を掴み、ドアに向かって引きずっていく。彼は階段のそばに立つ私に気づいた。私の手には、シャンパンフルートが握られている。
「絵里! 頼む! 本当のことを言ってくれ!」
私はグラスを掲げ、あざけるように乾杯の仕草をした。
「本当のこと? 本当のことなら、あなたはいるべき場所にいるってことよ」
玄関のドアが、すべてに終止符を打つかのように彼の背後で閉まった。
真夜中、私は自室の窓辺にいた。下の歩道にひざまずく哀れな姿が見えるギリギリまで、カーテンを引く。
司はもう三時間もそこにいる。
彼の肩は寒さか、あるいは涙で震えていた。たぶん、その両方だろう。
通りかかった学生たちが写真を撮り、「今年のキング・オブ・哀れ」「因果応報ねwwwwww」といったキャプションをつけてネットに投稿している。
私のスマホが通知で震える。インターネットは格好の祭りを楽しんでいた。
司が私の部屋の窓を見上げた。おそらく、慈悲や許しの片鱗でも見つけようとしたのだろう。
そんなものは、どちらも見つからない。
私はカーテンを元に戻し、デスクに向かった。そこには、明日の復讐計画の最終案が待っている。
『前の人生で、私にひざまずかせたのはあなただった』
私は、あのフラタニティのハウスで彼が私を屈辱した時のことを思い出した。沙織が彼にべったりとまとわりつくなか、私を「足手まとい」と罵った、あの時のことを。
『今度は、あなたが絶望を味わう番よ』