
第1章
M市の街、地上四十二階。文字通り、一本の糸で宙吊りになりながら、私の頭にあったのは死への恐怖ではなかった。失敗への恐怖だ。
『今夜しくじったら、父さんの真実には二度とたどり着けない』
ガラスタワーの外で、風が私の髪を激しく打ちつける。暗くなった窓には、幽霊のような自分の姿が映っていた。山口産業ビルはここから見ると、巨大な要塞のようだ。秘密を隠すにはうってつけ。殺人者が身を隠すにも、完璧な場所。 。
命綱が、嫌な音を立ててぐいと引かれた。一瞬、心臓が跳ねる。
『くそっ。まずい』
繊維がほつれる速さが、計算を上回っていた。警視庁で九年間も訓練を積んできたっていうのに、荷重分散を読み間違えるなんて。プロ失格ね、水原絵里。
冷たいガラスに手のひらを押し付け、偵察中に見つけておいた窓のラッチを探る。十月の風に指先はかじかみ、何もかもが十倍も難しく感じられた。お願い、早く……。
バチンッ!
夜の空気に、ロープが銃声のように弾ける音が響いた。
恐怖に凍りつく一瞬の後、私は地上四十二階下のコンクリートに向かって自由落下していた。胃がひっくり返るような感覚。本当に、走馬灯が見えた気がする――ただし、楽しかった思い出なんかじゃない。延々と続く警視庁での訓練と、森田英二さんの失望に満ちた顔だけが、脳裏を駆け巡った。
その時、一本の腕が――力強く、温かく、そしてありえないほど素早く――私の手首を掴んだ。
「一体、何……?」
見上げると、暗闇の中で輝いているかのような琥珀色の瞳があった。その瞳の持ち主は、まるで重さなどないかのように私を窓から引きずり込み、もつれ合ったまま、磨かれたオフィスの床へと二人で転がり込んだ。
私は彼の身体の上に乗り上げる形で着地し、互いの顔が数センチの距離で向き合う。そして、時間が……止まった。
彼の瞳は、上質なウィスキーの色をしていた。男には不公平なほど長い、黒いまつ毛に縁取られている。黒髪は乱れていて、きっと私が彼の夜を台無しにする前は、何かをしていたのだろう。そしてその顔――高い頬骨、ガラスを切り裂けそうな鋭い顎のライン、そして今は面白がっているのかもしれない、かすかに弧を描いた唇。
『集中しろ、絵里。見とれてる場合じゃない』
でも、あの瞳には何かがあった……正体のつかめない既視感に、胸が締め付けられるような、何か。
はっと我に返り、男の脇腹めがけて膝を叩き込む。大抵の男ならそれで沈むはずの急所だ。だが彼はこともなげに私の脚を掴むと、身体を反転させ、あっという間に私を下に組み敷いた。
「ただの泥棒じゃないな」と彼が言った。その声は低く、ざらついていて、どこのものか判然としない訛りがあった。イタリア系だろうか。「プロの訓練を受けている。軍隊か?」
彼の拘束に抗ってもがき、体勢を立て直そうとする。「あなたこそ、ただのサラリーマンじゃない。反射神経が良すぎるわ」
彼は笑みを浮かべた。危険な笑みだった。「観察眼があるな」
どうにか片腕を抜き出して彼の喉を狙ったが、再び手首を掴まれ、両腕を頭上で一本の腕で押さえつけられてしまった。その体勢で彼の顔がぐっと近づき、左の眉を横切る細い傷跡が見えるほどの距離になる。
『待って』
あの傷……どこかで見たことがある。父さんの事件ファイル、被害者の一人にあった傷だ。刃が絶妙な角度で皮膚を捉えたような、特徴的なカーブを描く形。でも、これは古い、治癒した傷だ。被害者のものではなく、生存者の傷跡。
「何者か言え」彼の温かい息が耳にかかり、囁きが聞こえる。「さもなければ、今夜このビルから生きては出られないぞ」
心臓が激しく鼓動していたが、それは恐怖心だけが原因ではなかった。彼とここまで近づいていることに、何か電気的なものが走り、肌が粟立つような感覚があった。『しっかりしろ、水原』
「私はただの貧乏な美術学生よ。母親の癌治療費を稼ぐために、盗みに入ったの」私はすらすらと嘘をついた。その作り話は、何週間も練習してきたかのように、自然に口から滑り出た。実際、その通りなのだが。
「嘘だな」彼の琥珀色の目が、私の顔を探り、見せかけの仮面にあるひび割れを探している。「もう一度言え」
奇妙なことに、彼は残酷そうには見えなかった。危険なのは間違いない。だが、その私を抑える手つきには、どこか……庇うようなものがあった。まるで、彼自身のためではなく、私の安全のために私を制しているかのように。
『馬鹿なこと考えないで、絵里。彼は山口家の一員。父さんを殺した連中よ』
しかし今、彼を見つめ、彼が私の手首を掴むその慎重な――力強いが痛くはない――手つきを感じていると、森田さんが話してくれたことが全てだったのか、疑問に思い始めていた。
「わかったわ」彼の視線を真っ向から受け止めて言った。「私はすごく才能のある泥棒で、重い病気の母親がいて、とんでもなく高額な医療費が必要なの。これで正直かしら?」
彼はもう一度、長い間私を吟味してから、手首を離し、踵をついて座り直した。「名前は?」
「それが重要?」
「俺にとってはな」
その口調に何かを感じ、私は彼をより注意深く見た。そこには、侵入者を捕らえる以上の熱があった。まるで、私の答えが彼個人にとって本当に重要であるかのように。
『変なの』
「水原絵里」と私はついに言った。名前を偽る意味はない――私の偽りの身元は完璧なのだから。
「絵里」彼はその響きを確かめるかのように繰り返した。「美しい名前だ」
私は身体を起こして座ったが、まだ互いの距離が近すぎることを強く意識していた。「ありがとう。母がつけてくれたの」
「癌だという、その母親か?」
「ええ」私はそう認め、その嘘がどれほど簡単に出てくるかに嫌気がさした。
彼は一瞬黙ってから立ち上がり、手を差し伸べてきた。良心に背きながらも、私はその手を取った。彼の手のひらは温かく、硬いタコができていた――銀行員の柔らかい手ではない。
「お前に提案がある」
私は片眉を上げた。「聞かせてもらえるかしら」
「俺のために働け。アシスタントとして」
「何ですって?」
「お前は金が必要だ。俺は……」彼は言葉を切り、あの危険な笑みが再び浮かんだ。「面白い従業員が必要なんだ」
私は彼を凝視した。今夜はこんな展開になるはずではなかった。侵入して、監視機器を仕掛け、脱出する。ターゲット本人に捕まるなんて、全くもって想定外だ。そして、彼を魅力的だと感じてしまうなんて、絶対にあり得ないことだったのに。
でも、これは使えるかもしれない。いや、これは完璧に使える。
「どんなアシスタント業務?」
「オフィス管理。スケジュール調整。それと、軽い警備だ」彼の瞳が、面白がっているのかもしれない輝きを帯びた。「お前は警備が得意だと思うぞ」
『軽い警備』。そうね。普通のアシスタントに警備訓練が必要なわけがない。
「お給料は?」
彼が口にした金額に、私は目を見開いた。それは、ほとんどの人が一年で稼ぐ額よりも多かった。
「それは……気前がいいわね」
「俺は忠誠心を重んじる」
その言い方には重みがあり、彼にとって忠誠心は非常に重要で、そして非常に稀なものであることを思わせた。
「やります」と私は言った。他に選択肢などあっただろうか。これこそ私が望んでいた機会――山口家の組織に潜り込むための道だ。森田さんも喜ぶだろう。
彼は自分のスマートフォンを取り出し、私に手渡した。「番号を入れろ」
私は番号を打ち込み、彼に返した。「いつから始めればいいの?」
「明日だ。午前九時」彼は、地上四十二階で生死をかけた格闘をした後ではなく、まるで普通の就職面接を終えたかのようにネクタイを直した。「遅れるなよ、絵里」
彼が私の名前を呼ぶその口調に、背筋がぞくりとした。それは、まだ開いた窓から流れ込んでくる十月の寒さとは何の関係もない震えだった。
「遅刻はしない主義よ」と私は言った。
「いいだろう」彼は窓を閉めるために動いたが、ふと足を止め、私を振り返った。「それから? 次に誰かのオフィスに忍び込みたい時は、正面玄関を使え。その方がドラマチックじゃない」
私がまだそこに立ち尽くし、今起きたことを処理しようとしていると、彼はほとんど囁くように付け加えた。
「ゲームへようこそ」