第1章 姿を見せない夫
柳田佳恋は戸籍謄本を持って区役所の前で既に2時間も待っていた。雨が降りそうな空を見上げると、心の中に不安が募ってきた。
昨日、おばあちゃんは何度も何度も念を押して、今日彼女と結婚するのは親友の孫だから、くれぐれも慎重にするようにと言っていた。
病床に横たわるおばあちゃんの弱々しい姿を見ながらも、自分のために頼れる人を見つけようとする様子に、断る言葉はどうしても口から出なかった。
今日、一度も会ったことのない男性と婚姻届を出すことになり、まるでブラインドボックスを開けるような気分だった。
大雨が降り出しそうになったその時、目を引くマイバッハが区役所の前に停車した。
柳田佳恋は緊張してバッグをきつく握りしめた。
車のドアが開き、視界に入ってきたのは...おじいさん？
柳田佳恋はその場から逃げ出したい衝動に駆られ、実際にそうしようとした。まさか自分のおじいさん世代の男性とブラインドデートすることになるとは思ってもみなかった。
「柳田佳恋さんですね？」重厚で微かな笑みを含んだ声が背後から聞こえてきた。
柳田佳恋は振り向く動きを止め、ぎこちなく口を開いた。「おじい...いえ、おじさん、わたしたち合わないと思うんですけど」
小林おじさんはそれを聞いて微笑み、目の前の若い女性が誤解していることがわかった。すぐに説明した。「柳田佳恋さん、誤解されていますよ。わたしは若様の代理で結婚手続きに来たのです」
柳田佳恋は呆然とした。結婚手続きを代理人に頼めるの？本人が来なければならないのではないの？
20分後、柳田佳恋は結婚証明書に力強く押される公印を見つめていた。彼女は悟った。驚くほかなかった。お金持ちは本当に何でもできるのだと。彼女は結婚証明書を手に取り、しばらく現実感がなかった。
合成写真のカップルは、どう見ても奇妙だった。二人の表情は結婚というより離婚する人のようだった。
「柳田佳恋さん、わたどもの若様は海外におりまして、直接お会いできないことをお詫びします。その気持ちとして、このカードをお受け取りください。中のお金はご自由にお使いいただけます」小林おじさんは笑顔でカードを柳田佳恋に差し出した。
柳田佳恋はそのカードを見て、どうしても気分が良くならなかった。まるで一枚の証明書で自分を売り渡したような気分だった。
「あなたたちの若様は自分の意思で結婚したんですか？」柳田佳恋はためらいながら尋ねた。
小林おじさんは微笑んだ。「もちろんです。このカードも若様が柳田さんにとお命じになったものです。何かご要望がありましたら、いつでもわたしにご連絡ください。では、お邪魔しました」
柳田佳恋はぼんやりとした頭で区役所を出た。外ではやはり雨が降り出していて、あのマイバッハはもう去った後だった。
彼女は軒下に立ち、雨宿りしながら、やっと新しく作られた結婚証明書をじっくり眺めた。
「和田啓二...」と彼女は名前を小さく呟いた。
確かに和田おばあさんの孫だ。先ほどの様子を思い出して、おばあちゃんはこの和田おばあさんの家がこんなにお金持ちだということを教えてくれなかったな。
写真の男性は端正な顔立ちで、深い彫りの五官を持ち、一目で心を奪われそうな容姿だった。実物はさぞかし美しいのだろうと想像できたが、残念ながら本人には会えなかった。この男性が彼女の名ばかりの夫になったのだ。不思議で仕方なかった。
柳田佳恋は深呼吸して、結婚証明書をしまい、雨の中へ飛び出した。
彼女はこの名ばかりの夫がすぐに連絡してくると思っていたが、3ヶ月経っても何の連絡もなかった。
最初は期待を抱き、この男性と良い生活を送れることを願っていたが、次第にその思いも諦めていった。日々の期待は最終的に失望へと変わり、やがて彼女はこの男性のことを忘れ、穏やかな日々を過ごすことへの期待も持たなくなった。
あっという間に1年が過ぎ、柳田佳恋は塚本家の支部の小さな文案企画から這い上がり、塚本家本部の広報部にたどり着いた。半月前には広報一部の部長に昇進したばかりだった。
塚本家は電子機器で成功を収め、今や業界のピラミッドの頂点に立つ存在となっていた。傘下の事業は世界中に広がり、今日は業界サミットの日。柳田佳恋は広報部の部長として当然出席することになっていた。
柳田佳恋は星空をテーマにしたキャミソールドレスを身にまとい、まるで月の女神のように、華やかな会議場で浮世離れした存在感を放っていた。彼女が現れると、多くの男性の視線を集めた。
柳田佳恋がまた一人の男性を丁重にかわした後、同僚の水野綾香がグラスを持ってからかいに来た。「佳恋ちゃんは本当にすごいよね、男性を引き付ける能力はまさに波状攻撃だわ」
「もう、やめてよ」柳田佳恋は水野綾香を優しく睨みつけた。
「そういえば、スピーチ原稿は企画部に送ったけど、準備はできてる？」柳田佳恋は眉をひそめて尋ねた。
「安心して、柳田部長。私たちはとっくに準備万端よ。あなたが壇上で場を魅了するのを待ってるだけ」水野綾香は微笑み、安心させるような目配せをした。
今夜は各業界の大物が集まっており、柳田佳恋は一瞬たりとも油断できなかった。この業界サミットの主催者は塚本家の企画部と広報部であり、今夜何かトラブルがあれば、彼女の新しい役職もあっという間に失うことになりかねなかった。
柳田佳恋は今夜ずっと何か不安を感じていた。彼女は水野綾香と一緒に最前列の一番左に座り、司会者が会議の開始を宣言し、各業界の代表者がスピーチと情報共有のために壇上に上がるのを見守った。
「次に、塚本グループの社長、塚本悟様をお迎えします。電子産業の未来における応用と発展についてお話しいただきます。大きな拍手でお迎えください」司会者の声は澄んでいて力強く、会場の誰もがはっきりと聞き取れた。
塚本グループの社長はずっと海外にいて、業界の人々は皆、彼が塚本家から追放されていると思っていた。まさか帰国していたとは、しかもこのような華々しい形で復帰するとは。
会議場のライトが消え、スポットライトが一筋、ステージの中央に鋭く照らし出された。男性が舞台裏からゆっくりと歩み出てきた。
「うわ、社長いつ帰ってきたの？これ大ニュースじゃない。どうして知らなかったの？」
水野綾香は興奮して壇上の男性を見つめ、柳田佳恋に尋ねた。「広報部も知らなかったの？なぜ私に事前に教えてくれなかったの？」
柳田佳恋も困惑して首を振った。「わたしも...知らなかったわ」
柳田佳恋は壇上の中央へとゆっくり歩む男性を見つめた。彼女も混乱していた。本来なら塚本家のスピーカーは彼女のはずだったのに、どうして社長に変わったのだろう？
柳田佳恋は男性の顔を見つめた。端正で格好良い。突然、どこか見覚えがあるような気がした。どこかで見たことがあるような気がしたが、すぐには思い出せなかった。
男性の声は低く磁性を帯びており、ゆったりとしたスピーチは聴く者を心地よく魅了した。
「見とれてる？社長がこんな派手に復帰するなんて、本当に予想外ね。社長が何て言ってるか聞いてた？」水野綾香が柳田佳恋をつついた。
柳田佳恋は首を振った。彼女はさっきから塚本悟の顔ばかり見ていて、彼が何を言っているのか聞いていなかった。
「社長、どこかで見たことがあるような気がする」柳田佳恋はつぶやいた。
水野綾香は嘲笑うように笑った。「女なら誰でも社長に見覚えがあるって言うわよ。まさか結婚してる女性のあなたまで社長に目がないの？」
「...」
柳田佳恋は本当に見覚えがあると感じていた。