




第5章 あなたを実の娘として認める
竹下悦子はその言葉を聞いて、雷に打たれたような衝撃を受けた。
今日は晴れ晴れとした気持ちで婚姻届を出しに行くはずだったのに、交通事故に遭遇してしまった。道路で遊んでいた子供と、余計な世話を焼く女のせいで、車がガードレールに衝突してしまったのだ。
足を怪我し、最悪なことに遅刻してしまい、携帯も壊れて塚本のお母さんと連絡が取れず、塚本恭平とも会えなかった。
最初は自分が遅刻したせいで、塚本恭平が待ちきれずに帰ってしまったのかと思っていた。まさか横取りされるとは。
一瞬にして、様々な辛い感情が胸に押し寄せてきた。
この塚本おばさんの気に入られるために、どれだけの時間と労力を費やしたことか。
竹下悦子は、できるだけ可哀想そうな声色を作って話し始めた。
「おばさん、全て私が悪いんです。遅刻なんてするべきじゃなかったんです」
息子が間違った相手と婚姻届を出したことを知った塚本のお母さんは、すぐに心配そうに慰めの言葉をかけた。
「竹下さん、今日のことは全て塚本恭平が悪いのよ。あなたは悪くないわ。あの子が人違いをして、他人と間違って婚姻届を出してしまったの。必ず責任を取らせるわ」
竹下悦子は涙声で答えた。
「私が悪いんです。運転が下手で、道路で遊んでいた子供を避けようとして、自分で怪我をして時間を無駄にしてしまって...全て私の責任です」
塚本のお母さんは、常々竹下悦子のことを心優しい子だと思っていたが、この言葉を聞いてさらに感動した。
すぐに心配そうに慰め続け、電話越しの塚本恭平に言い聞かせた。
「ほら、竹下さんってなんて優しい子なの。私の命を救ってくれただけじゃなく、毎日こんなおばさんの相手をしてくれて。こんないい子、どこにいるというの」
塚本のお母さんは竹下悦子の手を握りながら、満足げに語った。
竹下悦子の気が利いて、素直で優しいところが気に入っているのだ。
塚本恭平は母の言葉を聞いて、呆れ果てた。
どんな善人が仕事も休んで毎日病院に通うというのか。食事よりも熱心に。それに、これが優しさだというのか?道路で人に出会ったら避けないで轢くつもりなのか?
この竹下悦子の下心は見え見えだった。
母親がどうしてそれに気付かないのか、理解に苦しんだ。
億万長者の家庭出身の母親が、なぜこうも世間知らずなのか。
胸の中の怒りを抑えて、塚本恭平は母親に言った。
「母さんが気に入っているなら、毎日付き添わせればいい。心配しないで、給料は払うから」
その言葉を聞いた竹下悦子は更に激しく泣き出した。介護士でもないのに、給料とはどういう意味なのか。
「そういう意味じゃないでしょう。竹下さんと早く結婚しなさいって言ってるの。そうすれば、お嫁さんとして毎日私の側にいてくれるでしょう」
塚本のお母さんは単刀直入に言った。
塚本恭平の表情が更に暗くなり、傍らで夕食の準備をしていたおばさんまでも、空気が凍りついたように感じた。
「母さん、もう一度言うけど、僕は誰とも結婚するつもりはない。仕事があるから、切るよ」
そう言って電話を切った。
塚本恭平の冷たい言葉に、竹下悦子の涙は一瞬止まったが、彼女は強がって涙を拭い、立ち上がった。
「恭平さんが私のことを好きじゃないのは分かっています。おばさん、私のことは忘れてください」
これは彼女の必殺技、引くことで攻めるやり方だ。いつも効果があった。
「竹下さん、そんなこと言わないで。安心して。たとえ塚本恭平のバカ息子があなたと結婚しなくても、おばさんはあなたを実の娘として認めるわ」
感動した様子で塚本のお母さんの胸に顔を埋めて啜り泣く竹下悦子だったが、心の中では不満げに毒づいていた。
実の娘なんてごめんだ。このクソばばの年金なんてたかが知れている。塚本の奥さんになる方が断然得だ。
塚本恭平は背が高くてイケメン。社長でなくても中流階級には入る。結婚さえすれば、このクソばばの金は全部自分のものになるのに。
塚本恭平は頭が痛くなるばかりだった。昼間の藤原真央との婚姻届の件だけでも十分悩ましいのに、今度は母親と、その周りにいる偽善者の相手までしなければならない。
ふと振り向くと、テーブルの上に置かれた婚姻届が目に入り、昼間の出来事を思い出した。