第4章
四日目の午後。討伐まであと二日と迫った訓練場は、最後の調整に励む生徒たちの熱気で、普段とは違う喧騒に満ちていた。
私は観覧席の片隅、あえて人目につかない場所に立ち、制服の袖に隠した腕輪に意識を集中させる。昨夜、フェリックスと交わした密約が、胸の内で静かな炎のように燃えていた。今日の目的はただ一つ。リリアンが演じる茶番劇の、一部始終を記録すること。
【システム:記録モードに移行。対象:リリアン・オーガスト】
【重要イベント発生まで、カウントダウン開始:14分59秒】
眼下に広がるのは、巨大な石造りの円形広場。周囲は淡い青色の魔法光を放つ防護結界で覆われ、午後の陽光が半透明のドームを透過し、地面にゆらめく光の斑点を描いている。空気中には、生徒たちが放つ魔力の残滓が燐光のようにきらきらと舞っていた。
その中心で、リリアンはひときわ目を引いていた。
標準的な魔法師の練習着に身を包み、【光系治癒魔法】の訓練に没頭している。その姿は、まるで聖女の祈りのようだ。彼女の手から放たれる純白の魔法光は、見る者の心を浄化するかのような清らかさで満ちている。
だが——。
【システム表示:リリアン・オーガスト】
【現在状態:演技準備中】
【心理ステータス:緊張65%、高揚25%、自己陶酔10%】
【思考スキャン:『努力しすぎて、うっかり負傷した可憐なヒロイン』……完璧に演じきらなきゃ】
思わず、口の端に冷たい笑みが浮かぶ。転生者というものは、怪我の芝居一つにも、これほどまでに情熱を注げるらしい。大したものだわ。
授業が半ばに差し掛かった頃、リリアンは満を持して【上級治癒術】の発動を試み始めた。現在の彼女の実力を僅かに超える、絶妙なチョイス。彼女のレベルなら、魔力を少し逃がすだけで、大事に至らずに「失敗」を演出できるはずだ。
「リリアンさん、すごいわ。あんな大魔法に挑戦するなんて」
「平民出身なのに、本当に努力家よね……」
隣の席から聞こえてくる囁き声は、称賛と羨望に満ちている。彼女の計算通り、舞台装置は完璧に整った。
【リリアンの思考をキャッチ:そろそろね。魔法が暴走したように見せかけて、衝撃は最小限に……足首を狙って、綺麗に倒れ込むのよ】
その瞬間を、私は見逃さなかった。
リリアンの手の中にあった純白の光球が、突如として制御を失ったかのように激しく明滅する。次の瞬間、眩い閃光が弾け、彼女は絹を裂くような悲鳴を上げた。まるで糸が切れた人形のように、計算され尽くした角度で、右側へと崩れ落ちる。
「きゃあっ!足首が……!」
右足首をか弱く抱え、みるみるうちに蒼白になる顔。潤んだ瞳から、大粒の涙がはらりとこぼれ落ちた。もし私がゲームの筋書きを知らなければ、この完璧なまでの悲劇のヒロインに、同情してしまっていたかもしれない。
「リリアン、大丈夫!?」
「誰か、先生を呼んで!」
周囲の生徒たちが、磁石に引かれる砂鉄のように駆け寄っていく。
ブレイク先生も慌てた様子で駆けつけ、リリアンの足元に屈み込んだ。先生の手から放たれた温和な診断魔法が、淡い緑色の光の輪となってリリアンの足首を包む。
「むぅ……魔法の反動による捻挫だな」
先生は険しい顔で告げた。
「靭帯を損傷している。全治一週間は安静が必要だ」
その言葉に、リリアンは痛みに耐えるように唇を噛み、震える声で言った。
「だ、大丈夫です、先生……。でも、明後日の討伐に参加できないのが、本当に、残念で……」
その瞳は、仲間を想う無念さと、己の無力さを嘆く悲しみで、痛々しいほどに濡れていた。見事な演技だわ。アカデミー賞ものよ。
案の定、心優しい生徒たちが、リリアンの筋書き通りに騒ぎ始める。
「どうしよう、討伐隊はただでさえ治癒師が少ないのに……」
「リリアンさんがいないと、危険じゃないかしら」
その流れの中、一人の生徒が、まるで示し合わせたかのように、こちらに視線を向けた。
「そうだわ、ローゼンバーグ家のモニカ様なら!魔法全般に秀でていらっしゃるし、リリアンさんの代わりをお願いできないかしら?」
【システム警告:罠が起動しました。周囲の同調圧力が上昇しています】
私は心の中で舌打ちしながらも、表面上は戸惑った表情を浮かべてみせる。
「わ、私が?でも、治癒魔法は専門では……」
「モニカ様は総合成績トップクラスです!」
学級委員長が、待っていましたとばかりに声を張る。
「それに、貴族には平民を守る義務があるはずです!」
正義感を振りかざした言葉が、周囲の空気を一気に支配する。そうだ、そうだ、と囃し立てる声が、私を追い詰めていく。
その完璧なタイミングで、リリアンがとどめを刺した。
「もし……もし、モニカ様が代わりを引き受けてくださるなら、私も、安心できます。皆の安全が、何より大切ですから……」
その言葉は、どこまでも清く、自己犠牲に満ちている。この場の誰もが、彼女を心優しき聖女だと信じて疑わないだろう。
私は、観念したように深くため息をつき、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました。皆さんが、そこまでおっしゃるのなら」
「「「よかったー!」」」
割れんばかりの拍手と安堵の声。
その中で、リリアンだけが私に感謝の微笑みを向けた。だが、その瞳の奥で燃える光を、システムは見逃さない。
【リリアンの思考をスキャン:愚かな悪役令嬢。ようやく私の掌の上で踊ってくれたわね】
ふん。どちらが踊らされているのか、すぐに思い知らせてあげる。
* * *
その夜。寮の自室に戻った私は、すぐにフェリックスが作った【探知水晶】を机に置いた。ナイトランプの光を受けた青い水晶が、深海の真珠のように静謐な輝きを放つ。
【システム連携:討伐ルートのデータをスキャン中……】
【警告:ファイルに異常な改竄痕跡を検知】
目の前に、ホログラムのようにルート情報が浮かび上がった。その内容に、私は息を呑む。
【元ルート】
学園→陽光の森(外縁部)→初級モンスター生息域→帰還
【危険度:★☆☆☆☆】
【改竄後ルート】
学園→陽光の森→暗黒の森(深部)→魔瘴の湿地→古代遺跡→帰還
【危険度:★★★★★】
【システム分析:ルート改竄日時:三日前。実行には教員レベル以上の権限が必要】
【結論:ダルジア王子が王族の権限を利用し、ルート策定に不当介入した可能性:極めて高い】
全身の血が冷たくなるのを感じた。リリアンの代役に私を仕立て上げ、最も危険な死地へと誘い込む。これが、彼らの計画の全貌……!
私は震える指で、魔瘴の湿地の詳細データを呼び出す。
【魔瘴の湿地】:古代の戦場跡。腐食性の毒霧が常に立ち込め、視界と魔法精度を著しく低下させる。
【生息魔物】:影狼(A級)、毒霧スパイダー(B級)、腐食スライム(C級)
そして、最も重要な情報に、私の心臓は氷のように冷え切った。
【影狼の習性】:群れで狩りを行い、単独行動の者や負傷した標的を優先的に襲う。攻撃は頭部と顔面に集中する傾向。
【システム補足:過去五年間の魔瘴湿地における負傷者のデータ照会。被害者の顔面損傷率:100%】
無意識に、自分の頬に手が伸びる。
これか。これが、ダルジアの描いた『完璧な筋書き』。
私を危険な場所で孤立させ、「不慮の事故」で顔に消えない傷を負わせる。そうすれば、彼は「被害者」として私との婚約を破棄し、悲劇を乗り越えてリリアンと結ばれる……。
なんという、底知れぬ悪意。
【探知水晶が警告:接近者を検知。距離:15メートル】
私は咄嗟に全ての魔道具を隠し、何気ない顔で歴史書を開いた。数秒後、控えめなノックの音が響く。
「モニカ、私だ」
ダルジアの、甘く響く声。
心臓が警鐘を乱れ打つ中、私は平静を装って扉を開けた。
月光を背にしたダルジアが、一輪の夜香花を手に立っている。その姿は、おとぎ話の王子様のように、非の打ち所がなかった。
「討伐に参加すると聞いてね」
彼の声は、蜂蜜のように甘い気遣いで満ちていた。
「婚約者として、心配になったんだ」
【システム表示:ダルジア・フォン・エルクハルト】
【本心:全て計画通り。実に気分がいい】
【表面上の偽装度:92/100】
吐き気をこらえ、私はか弱く微笑んでみせる。
「ご心配いただき、光栄ですわ、ダルジア様」
彼は部屋に入ると、獲物を検分するような目で、さりげなく私の机に視線を走らせた。
「この花を君に」
彼は夜香花を差し出す。
「幸運のお守りだよ」
濃厚な花の香りが、今の私には毒のように感じられた。
「明日はゆっくり休むんだ」
ダルジアは私の隣に腰掛け、親密すぎる距離で囁く。
「討伐では私が必ず君を守る。だが、君自身も油断しては駄目だ」
【システム表示:虚偽の約束を検知。信頼性:0%】
【ダルジアの真の計画:討伐中、意図的に別行動の機会を創出し、モニカを孤立させる】
「……はい」
私は、ただ頷くことしかできなかった。
彼が去り際に、私の額に唇を寄せた。その感触は、まるで冷たい蛇が肌を這うようで、全身に鳥肌が立った。
扉が閉まった瞬間、私は洗面所に駆け込み、ゴシゴシと額をこする。あの偽りの口づけの感触を、一刻も早く洗い流したかった。
鏡に映る自分の顔は、怒りと決意で燃えていた。
見ていなさい、ダルジア、リリアン。
あなたたちが用意したその舞台で、本当の悲劇の主役になるのは、どちらかしら。








