第2章
深夜の静寂に包まれた寮の一室。デスクライトの柔らかな光だけが、私の顔と、机に広げた資料をぼんやりと照らしていた。
昼間の衝撃は、まだ胸の奥で燻っている。ダルジアの甘いプロポーズ、そして脳内に直接響いたシステムの覚醒。あまりにも非現実的な出来事の連続に、思考が追いつかなかった。
「……もう、ぼんやりしている暇はないわ」
誰に言うでもなく呟き、私は目の前に浮かぶ半透明のウィンドウにそっと指を伸ばした。まるで禁断の書を開くかのように、次々と機能が展開される。
【人物情報】【シナリオヒント】【未来予知】【隠しルート攻略】……。
思わず息を呑む。これは、もはやチートと呼ぶべき力だ。
試しに【人物情報】を開き、自分のステータスを確認する。
【モニカ・フォン・ローゼンバーグ】
【レベル:15】
【称号:悪役令嬢】
【魅力:85/100】
【知性:78/100】
【魔力:65/100】
【状態:覚醒中】
【運命軌道:原作シナリオより逸脱中】
「原作シナリオより、逸脱中……」
眉をひそめた私に、システムは親切にも初心者ガイドを表示した。
【優先調査推奨:ダルジア王子とリリアン・オーガストの真の関係】
リリアン。
昼間の薔薇園で、遠巻きにこちらを眺めていた平民の少女。人畜無害を装ったあの顔の裏に、一体何を隠しているというの?
貴族たちの好奇の視線を一身に浴びながら、彼女は少しも物怖じしていなかった。それどころか、どこか誇らしげで、自信に満ちているようにさえ見えた。まるで、自分が物語の主役だと知っているかのように。
「……まあ、いいわ。今日はもう休みましょう」
思考を打ち切り、システム画面を閉じる。今日一日は、刺激が強すぎた。
翌日の午前、魔法理論の授業は相変わらず退屈だった。
ブレイク教授が教壇で魔法陣の構成原理を滔々と語っているが、私の意識はそこにはない。後列の席からノートを取るふりをしつつ、視線は前方の二人に注がれていた。
貴族席に座るダルジアは、陽光を浴びて金の髪をきらめかせ、まさに絵に描いたような王子様だ。一方、平民奨学生のエリアにいるリリアンは、真剣な表情でペンを走らせ、ごく普通の優等生にしか見えない。
(見せかけだけは、完璧なのね)
私は内心で毒づきながら、そっとシステムの【人物情報】を起動した。
【対象:ダルジア・フォン・エルクハルト】
【現在思考:放課後、リリアンと討伐計画の最終確認をせねば】
手の中の羽根ペンが、カタリと音を立てて震えた。危うく取り落とすところだった。討伐計画の、最終確認?
休み時間。私はわざと荷物を片付ける手を緩め、ほとんどの生徒が教室から出ていくのを待った。そして、足音を殺し、ダルジアの背中を追う。
案の定、彼はラウンジへは向かわず、今は使われていない錬金術準備室へと歩を進めていた。
壁際に身を潜め、ドアの隙間から中の様子を窺う。
「リリアン、準備はいいか?」
聞こえてきたのは、ダルジアの、普段の優雅さとはかけ離れた、素っ気ない声。
「ええ、もちろん。計画通りよ」
リリアンの声は、猫なで声のように甘く響いた。
「でも、昨日のモニカの反応、少し気にならない?何か勘付かれたのかしら」
心臓が、どくん、と跳ねた。
「ありえん」
ダルジアは鼻で笑った。
「あの女は昔から単純で、何より俺に惚れ込んでいる。疑うことなど万に一つもない」
その言葉に、私の口元に冷たい笑みが浮かぶ。もし、今この瞬間の私を見たら、あなた、どんな顔をするのかしら?
「それで、討伐計画は……」
「予定通りだ。明後日の実技訓練で『事故』に見せかけて怪我をしろ。いいな、絶対にしくじるなよ」
その時だった。私の視界の端で、システムが警告のように赤い光を放った。
【特殊タグ検出!】
【対象:リリアン・オーガスト】
【属性:転生者(原作ゲームの記憶保持)】
なんですって……!?
リリアンも、転生者?この世界がゲームだと知っていて、あのシナリオをなぞっている?
壁に背を預け、どうにか衝撃をやり過ごす。どうりで、あの違和感。私たち、同類だったというわけね。けれど、なぜ彼女はダルジアと手を組み、悪役令嬢である私を陥れようとするの?
午後。山のような疑問を抱えたまま、私は学園の中央図書館へと向かった。
彼らが『討伐』と口にした以上、まずはその詳細を把握しなければならない。
魔物研究エリアは、想像通り閑散としていた。分厚く埃をかぶった書物は、ほとんどの生徒にとって退屈な代物なのだろう。
【閲覧推奨:『王国危険区域魔物分布図』『暗黒の森・歴年事故記録』】
システムの助言に従い、該当の資料を探し出す。ページをめくった瞬間、私は息を呑んだ。
『暗黒の森』の奥地には、A級魔物【影狼(シャドウヴォルフ)】が生息。極めて俊敏で、人間の顔や喉といった急所を執拗に狙う習性を持つ——。
さらに私を戦慄させたのは、事故記録だった。過去五年で、計十二名の生徒が討伐任務中に重傷を負い、うち八名が顔面に再起不能の損傷を負っている。
無意識に、自分の頬に手が伸びた。
読み進めるうちに、ある恐ろしい法則性に気づく。負傷した生徒のうち、少なくとも三件は、本来の参加者の『身代わり』として急遽任務に加わっていたのだ。
その時、システムが再び警告を発した。
【二日後の重要イベント:リリアンの『事故』による負傷】
【イベント詳細:魔法実技訓練中、故意に魔法を暴発させ、足首を捻挫したと偽装する】
つまり、リリアンはわざと負傷し、その代役として私を討伐へ送り込むつもりなのだ。考えれば考えるほど、背筋が凍る。これは、私を社会的に抹殺するための、周到に仕組まれた罠だ。
何か対抗策はないか。魔道具工房の関連資料を漁っていると、不意に気だるげな声が頭上から降ってきた。
「よぉ。これはこれは、かの有名なローゼンバーグのお嬢様じゃないか。こんな古臭い資料に、何か御用で?」
顔を上げると、そこにいたのは一人の少年だった。着崩した制服に、燃えるような赤髪。気だるげな瞳が、私を面白そうに見下ろしている。
システムが、即座に情報を弾き出した。
【フェリックス・クラウス】
【身分:魔道具工房の後継者】
【レベル:???】
【好感度:???】
【特殊タグ:隠し攻略対象(★★★★★)】
【備考:原作ゲームでは特殊条件を満たさなければ出現しない】
この人……!
フェリックスは無造作に私の向かいの椅子を引き、私が読んでいた魔物図鑑をひょいと手に取った。
「影狼、ね。なかなかの厄介者だ。あんた、まさか来週の討伐に参加するクチか?」
「……万が一に備えて、状況を把握しておこうと思いましてよ」
私は警戒を解かずに答えた。
「ふぅん。もし本当に行くってんなら」
彼の眼差しが、ふと真剣な色を帯びた。
「これを持っていくといい」
そう言って、彼は懐から精巧な細工が施された銀の護符を取り出し、こともなげにテーブルの上へ滑らせた。
【道具:絶零の守護符】
【等級:S】
【効果:A級魔物の致死攻撃を一度だけ完全無効化する】
「こんな、貴重なものを……!」
「どうせ工房で眠らせておくだけの代物だ。あんたへの、まあ、挨拶代わりってとこさ」
フェリックスは再び気だるげな表情に戻ったが、その瞳の奥に宿る鋭い光を、私は見逃さなかった。この男は、見た目ほど単純ではない。
「魔道具に、お詳しいのですね?」
探るように尋ねる。
「家業なんでな」
彼は肩をすくめた。
「ウチの工房は目立たないが、学園の裏方仕事は一手に引き受けてる。討伐ルートの安全性評価とかな」
私の心臓が、とくん、と跳ねた。
「安全性、評価……?」
「ああ」
フェリックスは私の食いつきに気づいたようだ。
「人命がかかってるんだ、当然だろ。特に最近、暗黒の森の魔物の活動がどうも妙でな……」
「もし、その安全性について、もっと詳しくお話を伺いたい場合は?」
フェリックスは、口の端を上げてにやりと笑った。
「いつでも工房に来な。歓迎するぜ。……だが」
彼は一呼吸置き、私の瞳をまっすぐに見据えた。
「なんで急にそんなことを気にする?まさかとは思うが、誰かに厄介事を押し付けられそうにでもなってるんじゃないだろうな?」
システムが、選択肢を提示する。
【重要分岐:フェリックスは状況の異常性を察知しています。真相の一部を打ち明け、協力を要請することを推奨します】
目の前の、謎めいた赤髪の少年。なぜだろう。彼を前にすると、不思議と心が凪いでいくのを感じる。
この男こそが、私の『切り札』になるかもしれない。
「明日、工房へお伺いしますわ」
私は本を閉じ、静かに立ち上がった。
「この御守り、感謝いたします」
「どういたしまして」
フェリックスも立ち上がる。
「気をつけな、モニカ。この世界は、あんたが思ってるより、ずっとタチが悪いぜ」
彼の背中を見送りながら、私は手の中の冷たい護符を強く、強く握りしめた。








