第2章
午前二時。
薄い霧が、東京の夜景を滲ませていた。
煌びやかなシャンデリアの光も届かない、だだっ広いリビングのソファに、私はひとり座っていた。スマートフォンの画面だけが、青白く私の顔を照らし出す。
コール、十七回。
藤原宗司が出る気配は、ない。
不意に、手の中のスマホが短く震えた。
──宗司?
一瞬高鳴った心臓は、しかし次の瞬間、氷水を浴びせられたように冷えていく。
目に飛び込んできたのは、高田桜子が更新したSNSの投稿だった。
『幸い、まだ何もかも手遅れじゃなかったみたい』
その言葉に添えられていたのは、一本の腕に絡みつく、華奢な指先の写真。
男物の腕時計、そして手首に浮かぶ痣。
見間違えるはずもなかった。
それは、藤原宗司の手だった。
十分も経たないうちに、その一枚の写真は、ビジネス界という名の静かな海に、巨大な波紋を広げていった。
『藤原グループの安定性に懸念』
『次期社長の家庭問題か』
そんな見出しがネットニュースに躍り、投資家たちの不安を煽る。
そして、無数の非難の矢は──私へと、容赦なく向けられた。
『やっぱり、藤原社長は高田桜子さんの元に戻ったんだ』
『初香はただの繋ぎでしょ。家政婦の娘と本気で結婚するわけないじゃない』
『高田さんこそが藤原宗司の真実の愛。マジで泣ける』
『前から初香って気に入らなかったんだよね。何様のつもりで藤原社長といるわけ?』
刃のような言葉の群れ。
私の指が、微かに震える。
その時、会社の広報部から着信があった。
「奥様、社長と連絡が取れません。高田桜子様の投稿が、当グループの株価に少なからぬ影響を及ぼしております。どうか、奥様と藤原社長の関係が安定している旨の声明を発表していただけないでしょうか」
わかっている。これは、藤原の妻としての、私の『仕事』だ。
私は、断らなかった。
ただ、投稿する写真を探そうとして、愕然とする。
宗司とのツーショットが、驚くほど少ないのだ。
たとえあっても、微笑んでいるのは私一人だけ。彼の視線はいつも、私の肩越しにある何かを見ている。
まるで、夫婦ではなく、見知らぬ他人同士のように。
深く、息を吸う。
私は、書斎で仕事をする宗司の古い写真を一枚選び出し、投稿した。
『宗司は自宅で残業中です。明日の取締役会の準備をしています。皆様ご心配ありがとうございます。事実無根の情報は信じないでください』
虚しい嘘。けれど、ネット上の多くの人々はこの投稿を信じ、中には高田桜子の動機を疑う声さえ上がり始めた。
私が、ほっと息をついた、まさにその時。
ピコン、と。
スマホが、冷酷な通告を告げた。
宗司が、高田桜子の投稿をリツイートし、たった一言、こう認めていたのだ。
『俺だ』
世界が、反転した。
私のスマートフォンは、今度こそ本当に爆発した。
高田桜子の友人、宗司と彼女の過去を知るファン、野次馬。あらゆる人間が私のアカウントに押し寄せ、嘲笑の言葉を浴びせてくる。
『可哀想に。自分の旦那がどこにいるかも知らないで声明を出すなんて』
『藤原宗司に必要なのは心から彼を愛する人であって、家でこんな馬鹿なことしかできないお飾りじゃないわ』
『高田家は破産したけど、人脈はまだ残ってる。あなたには何があるの?』
刃は、一本残らず私の胸に突き刺さった。
私はただ、ソファの上で、それらのメッセージをスクロールし続ける。
不思議だった。
あれほど痛かったはずなのに。
心は、嵐が過ぎ去ったあとの海のように、静かに凪いでいた。
──離婚、しよう。
私は、そう思った。
◇
翌朝。取締役会に出席するため、私は藤原グループの本社ビルにいた。
エレベーターに乗り込んだ途端、背後から高いヒールの音が響く。
「初香さん、ごめんなさいね」
高田桜子だった。高価なスーツに身を包み、限定版のブランドバッグをこれ見よがしに提げている。
「昨夜はパーティーで飲みすぎて、変な投稿しちゃったの。でも、あの写真は本物よ。あなたも分かってるでしょ?」
私は、沈黙を保った。
「ずっと不思議だったの」
高田桜子は、私との距離を詰める。
「宗司がどうしてあなたと結婚したか、知ってる?ネットではみんな、私があなたの代わりだって言ってるけど、本当に馬鹿げてるわ」
「あなたと私じゃ、全然タイプが違うもの」
彼女は、無邪気な子供のような笑みを浮かべる。
「それとも、何か別の方法でもあるのかしら。宗司に、あなたのことを私だと思い込ませるような?」
悪意が、甘い香水の匂いに混じって私の喉を焼く。
「ねえ、教えてくれないかしら。私も、自分の身代わりになるってどんな気分か、試してみたいの」
私の呼吸が、一瞬止まった。
「高田さん。私と宗司は、まだ離婚していません。今のあなたの振る舞いは、いかがなものかと」
「何がいけないの?」
高田桜子は私の左手を掴んだ。その視線が、薬指の指輪に突き刺さる。
「ここは元々、私の居場所だったんだから。その指輪、返してちょうだい」
「やめてください」
私は勢いよく手を振り払った。
「自重しろ、ですって?」
高田桜子は、心底おかしいというように冷笑した。
「家政婦の娘のあなたが、私に指図する資格があると思って?」
次の瞬間。
彼女が提げていたブランドバッグが、私の額に叩きつけられた。
衝撃でよろめき、視界がぐらりと揺れる。鈍い痛みと共に、生温かいものが額を伝うのがわかった。
偶然通りかかった社員が、息を呑んでスマホを構える。
チン、と軽い音を立てて、エレベーターの扉が開いた。
そこに立っていたのは──藤原宗司だった。
彼は一瞬目を見開くと、すぐに駆け込んできて、反撃しようとした私の手首を強く掴んだ。
「桜子に手を出すな。自分の立場を、忘れたのか」
骨身に染みるほど、冷たい声。
けれど、私の額から流れる血に気づいたのだろう。彼の言葉が、不意に途切れた。
「宗司!」
高田桜子は、待ってましたとばかりに彼の胸に飛び込み、泣きじゃくった。
「彼女が、昨夜の写真を見て、私を殴ろうとしたの。私はただ、自分を守っただけで……!」
「……わかってる」
宗司は、高田桜子の髪を優しく撫でる。その表情は、痛ましさに満ちていた。
「俺がいる。お前は誰にも謝る必要はない」
私は、ふと、高田桜子を少し羨ましいと思った。
彼女は思う存分甘え、悲しみを表すことができる。
でも、私にはできない。
私を慈しみ、甘えさせてくれる人は、もういないのだから。
──誠さん。
心臓が、きゅうっと締め付けられる。
私が宗司を見つめる瞳に、どんな色が浮かんでいたのだろう。
「藤原社長!」
廊下で一部始終を見ていた広報部長の山口さんが、焦ったように声を上げた。
「これ以上は、我が社の株価に影響が出ます!昨日奥様が声明を出してくださったというのに、あなたは……!」
「それは彼女がすべきことだ」
宗司は、眉間の皺を深くして言い放った。
「藤原社長」
山口さんは、声を潜める。
「将来、後悔なさいませんか」
「後悔?」
宗司は一瞬虚を突かれたように私を見ると、自嘲気味に鼻で笑った。
「初香を好きだった時期は、あったかもしれない。だが、桜子が戻ってきた。なら、俺の心には彼女一人しかいられないんだ」
過去の全ての温情は、ただの偽り。
本物が戻れば、身代わりが退場するのは当然のこと。
それを聞いた私は、ゆっくりと左手の指輪を外した。
そして、藤原宗司に差し出した。
「そういうことでしたら、これはお返しします」
先程まで高田桜子に向けていた優しい光が、宗司の瞳からすっと消える。
彼が受け取ろうと手を伸ばした、その時。
「いらないわ、そんなもの!」
高田桜子が指輪をひったくり、自分の指にはめようとした。しかし、リングが小さすぎるとわかると、苛立たしげにそれを傍の屑籠に投げ捨てた。
「宗司、私、人がつけてた指輪なんて嫌い。新しいのを買いに連れてってくれるわよね?」
宗司は、屑籠を一瞥すらしなかった。
ただ、もう一度、私を見た。
「お前は、そうやって結婚指輪を捨てるのか」
「もう、どうでもいいんです」
私は、穏やかに彼を見つめ返した。
あなたを見習うことにしたんです。
身代わりは、決して本物の代わりにはなれない。
ちょうど、あなたが──あなたの兄である、藤原誠さんの代わりには、決してなれないように。
私もまた、自分の心が、誠さんしか受け入れられないという事実を、受け入れなければならなかった。
ただ、それだけのことだった。






